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なぜ本を読むのか、何の本を読むのか ~小説~

前回、童話・絵本について書いてみました。ご紹介した好きな絵本は、よく見たら王道中の王道でした💦

<目次>
1.読書嗜好の原点
2.避けてきた、銀河鉄道の夜
3.小説にのめり込むことになった作品
4.今、好きな作家

1.読書嗜好の原点
本の嗜好は親の価値観が大いに影響しています。私の父はなかなかの本好きで、部屋の壁はすべて本で埋まっておりました。しかも文庫本だから数がすごかった。

ラインナップは「時代小説」「ハードボイルド小説」「推理小説」がほとんど。(その中に「ワンピース」の漫画が全巻収まっていたのは不思議な光景でしたが、この嗜好だと読みたくなる気持ちはわかる。)アガサ・クリスティーだとか、北方謙三だとか、佐伯泰英だとか、山村美紗だとか王道ですけどなにしろ作品数が多い作家さんばかり。そら蔵書も増えます。

さらに、父の知識欲は際限がなく、魚類、鳥類、昆虫、羊歯植物の『原色日本図鑑シリーズ』全巻、『現代用語の基礎知識』『知恵蔵』『広辞苑』『世界大百科事典』など、分厚い書物がたくさんありました。金が相当かかっただろうなぁ・・・。

小学生のころよく読んでいたものは『シートン動物記』『ファーブル昆虫記』『星座の図鑑』『妖怪図鑑』などが多く、見事に親の価値観を受け継いでおりました。

     

2.避けてきた、銀河鉄道の夜
中学生の時、2週間ほど入院したことがあったのですが、その時『宮沢賢治』にハマりました。童話だけでも全作品制覇したかったのですが、40作品以上もあるので無理でした。

この中で、どうしても自分の意志で読むことができなかった作品があります。それは『銀河鉄道の夜』。小学生のころ、読もうと試みたことがありましたが、その時からやっぱり読むことができませんでした。始めの1ページで、なぜだかどうにも恥ずかしく、悲しくなってしまい、それ以降読むことができなくなってしまうのです。それ以来、一度も『銀河鉄道の夜』を読んでいません。ですが、昨日やっと読んでみました。

私の本の読み方というか、読んでいる状態というのは、まず頭の中で音読を始めます。4行くらい読み進むと、頭の中に文章にある情景が映像として浮かびます。こうなると、音読は聞こえなくなり、映像と音声で物語が進行していきます。この音読から映像に切り替わるまでに文字数を要する本は、けっこうおもしろかったように思います。今まで経験したことのない情景や、状況が多いので、「共感」が生まれるまでに時間がかかるものの、読み進めるにつれてどんどん「魅力的な新しい世界」が繰り広げられるので、最後にはかなり感動しちゃいます。

ところが、『銀河鉄道の夜』は最初から最後まで、ほんの一部分しか映像に切り替わりませんでした。映像にするには、自分の経験や知識ではとても賄いきれない美しい世界でした。想像してみても、ジョバンニとカムパネルラが見ている景色には程遠いものしか浮かんでこない気がしてしまいました。でも今回は読むのをやめませんでした。

小学生や中学生の時、読もうと思ったのに恥ずかしくてやめてしまったのは、ジョバンニが感じた「恥ずかしさ」に共感してしまったのと、幼いがゆえに「美しい」という言葉がどうしようもなく恥ずかしく思えてしまったんだと思えます。なぜ「美しい」を「恥ずかしい」と思うのかはいまだにわかりません。

そして何より、 頭の中で音読した時の言葉の連なりと響きそのものが大変心地よく、映像がいらなくなってしまいました。つまり、「字を追う」ということに執着してしまいたくなりました。息子にもこの言葉の連なりの心地よさを伝えたくてたまらないので、息子が聞いてくれるようになったら読もうかなと思います。

想像力も追いつかないくらい怒涛のような美しい景色の中を疾走してきたので、読み終わっておそらくとても悲しい結末のようだなぁとは思ったのですが、なんだか心が浮いたような感じになり、ジョバンニのように家に帰りたくなりました。※家にいたんですけども。

ファンタジーは苦手だったのですが、主人公ジョバンニが夢のような思いをし続けるでもなく、ちょっとしたきっかけですぐに悲しみを思い出してしまうところなどが現実に引きずり戻されるような感じで、つい共感してしまったような気がします。ジョバンニは、とてもこどもらしいこどもだなぁと感じました。

きっと、この「こどもらしさ」も、子供の私が「恥ずかしい」と思ったところだったんだろうなと思います。

3.小説にのめり込むことになった作品
私が初めて「本にハマった」と思ったのは「京極夏彦」。多感で少々病み気味な高校生の私にとって「姑獲鳥の夏」は衝撃のおもしろさでした。

これぞ求めていた「なさそうでありそうな世界」。

頭の中で考えているのだけど、語彙力や知識量が足りなくて、人に話したいけど話せていないことが文字に起こされたような感覚(おこがましいですが)があって、ミステリを楽しみながらカウンセリングを受けているような状態なのでしょう。

どんなに起こりえないような事象でも、わかっているけど論理的に説明できない事柄でも「この世に不思議なことなど何もないのだよ、関口君」の一言で、「ああ、やはり。思っていた通りだった。」と安心感を与えてもらえる気がしたものです。

実は、京極堂シリーズの第4作目『鉄鼠の檻』が最初に読んだ1冊。あまりの禍々しさに、読むのをやめたら呪われる気がして、徹夜で必死に読み終えました。一般人には難解な「仏教と禅」について「説明」してしまうという膨大な知識量と語彙力。圧巻でした。

1回では理解できないので、いままでに4回繰り返し読んでいますが、まだまだわからない。でもわからないからではなく、とにかく面白いからまた読みたい。その後の作品では、説明されても納得いかない非現実的な部分がだんだん多くなってきた気がして、最近は読んでいなかったのですが、また読んでみようかなと思います。

姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

鉄鼠の檻 (講談社文庫)

絡新婦の理 (講談社文庫)

4.今、好きな作家
今は「時代小説」しか読んでいません。ミステリを読むにあたって、現代本は、どうも「自分のために悪さをするヤツ」しか出てこない気がしています。しかも、悪辣。犯罪がいいことなわけはないのですが、時代小説はその点悪さをするにも「誰かのため」だったりするので、どこか救いようがある気がします。時代小説の中にも「自分のために悪さをする悪辣なヤツ」は出てきますが、大抵叩き切られます。もちろん叩き切られていいこともありませんが。正直スッキリ。

私が読む時代小説に出てくる人間たちは、そのほとんどが「人のために生きている」ように思います。私は人として生まれたからには、人のために生きるべきだと思っています。(自分のことは棚に上げてますよ、実践できていないですから。)自分のためにしか生きないのであれば、「人間である必要はない」わけで。むしろ、人のために生きられることが、人間たるゆえんなのではないかとさえ思います。もちろん、「人のために生きること」は最終的には「自分のため」なんですが。

最近の小説や、実際に事件を起こすような者は「自分のためにしか生きていない」ような人間ばかりな気がします。これを読んでしまうと、推理の中身がどんなに面白くても、最終的に気が滅入ってしまって、クタクタに疲れてしまいます。ストレスためるんじゃ全然趣味じゃない。

「現代文学」とは戦後に書かれたものをいうようですが、これは昭和と平成以降ではまるで違う気がします。どこからこんなに殺伐とした人間関係に変化してきちゃったんでしょうかね・・・。

そんな私が大好きな作家さんです。

著:大沢 在昌
出版:角川文庫
『アルバイト・アイシリーズ』

著:京極 夏彦
出版:角川文庫
『巷説百物語シリーズ』

著:佐伯 泰英
出版:光文社時代小説文庫
『新・吉原裏同心抄シリーズ』

著:佐伯 泰英
出版:文春文庫
『酔いどれ小籐次シリーズ』

著:佐伯 泰英
出版:ハルキ文庫 時代小説文庫
『鎌倉河岸捕物控シリーズ』

著:宇江佐 真理
出版:文春文庫
『髪結い伊三次捕物余話シリーズ』

著:宇江佐 真理
出版:角川文庫
『雷桜』

まだまだありますが、この辺で。ありがとうございました。

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